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仏と如来

2023年03月25日

 仏のことを「如来」とも呼び、釈迦牟尼仏を釈迦如来と言ったり、阿弥陀仏を阿弥陀如来とも言ったり、薬師仏を薬師如来とも言ったりします。仏のことを「のの様」というのも、「如来様」ということですね。どうして同じお方を2通りにお呼びするのでしょうか。

 「仏」ですが、この言葉はインドの「ブッダ(Buddha)」という音に漢字をあて「仏陀」と音写し、短く表現した言い方です。「ブッダ」という言葉には、「浮屠、浮図(ふと)」という漢字をあてることもあります。「仏」は「ほとけ」とも言われますが、中国や朝鮮半島を経由して日本に伝えられた時に、「ふと」が「ほと」と変化され、その「ほと」に接尾辞の「け」が付け加えられて「ほとけ」になったと言われています。

 「ブッダ」とは、「目覚めたもの」という意味で、「人間と世界についての真実に目覚めたもの」ということです。つまり、本当のことに気づかれたお方です。

 本当のことに気づかれたお方は、その気づかれた真実を人々に伝える責任や使命を持たれます。真実に目覚めることなく迷い苦悩するものに、「心配ないよ。安心して生きていく生き方があるよ」と語りかけ、苦しみを和らげ自らの存在に安心できるように、正しい教えを伝えるのです。気づかれたお方はその使命を自覚され、その責任を果たす人生を歩んで行かれるわけです。

 「如来」とは、「真如より来生したお方」つまり、この世界の真実に気づかれたお方が、そこから私たちのために気づけよとはたらきかけて来てくださっておられる姿を「如来」とお呼びしたのでしょう。真理に目覚められた「釈迦牟尼仏」は「釈迦如来」として、迷っている人々のために、色々な手立てを使って、私たちに正しい気づきを促してくださり続けられたのです。

 私たちの身近な生活のさまざまなことについて、たとえば、落ちているゴミに気づいたら、その気づいたものが動くことが大切だと思います。ただ指摘するだけではなく、気づいたものが気づいたものとしてその責任を果たす。自分だけの中で処理するのではなく、他人の責任にして他人にさせるのでもなく、気づいた事柄が有効なはたらきとなるように、できることを果たす人生が送りたいものですね。