お知らせ

善知識

2024年03月31日

 今これを読んでいらっしゃる方は、人生のどういうことがきっかけで仏教にふれることになったのでしょうか。生まれた家、家族、育った環境、出会った人、学んだこと、経験したことなどいろいろありますよね。

振り返って考えてみると、私たちが仏法に出あうきっかけとなったのは、あの人であったなぁと思い返して、自分と仏法を結びつけてくれた大事な人として再認識することがありますよね。

 あるいは、小さい頃によくわからないまま、あばぁちゃんやおじぃちゃんの膝の上でお内仏に手を合わせていたなどを、お別れしてずいぶん時間が経ってから、それが現在の聞法につながっていたと気づくことがあります。そこには、大きな転機となるような何かや、誰かに会うことだけでなく、直接・間接、無数の要因や経緯があるのです。

そんな中で、自分にとって特にという人を仏教では、「善知識」という言葉で表します。「知識」というと、情報や必要な技術などを「知っていること」の意味で使いますが、もとの仏教語としては「知己(ちき)」と同じく「友人」「知り合い」のことです。特に「善知識」は、その人との出あいによって自分が真実の教えに出あうことができたという場合の大切な人を指します。単なる先生というより、同じ方向を向いて求める友で、人間に生まれた真の意味を教えてくれたり、仏道へ導いてくれた人のことです。もちろん、その人を師と仰ぐことはありますが、必ずしも常に師弟というような上下関係ではありません。

 「弟子の準備ができると師が現れる」という言葉がありますが、師の方から教えてやろうと近づいてくるわけではありません。私たちの方が、自らの愚かさに気づいた時、本当のことを知りたいという意欲が湧き上がってきます。そういう願いをもって見回すと、あらゆることがヒントを提示してくれていることに気づきます。そして、自分はこの人と出あうために生きてきたと思えるような出あいがあります。今まで闇雲に探し求めていたけれど、自分が出あいたかったのは、聞きたかったのは、このことであったんだと、出あった瞬間に確信するような出あいです。

 親鸞聖人は法然上人を師と仰ぎ、また善知識として尊敬されました。師が全てを知っているわけではありません。しかし、その出あいから師を通して学ぶことは尽きません。法然上人自身の求める姿・語り口・生活の軸となっているものに接して、親鸞聖人は阿弥陀如来の本願に出あい、そこから、見えるすべてが問い直されていきました。

 阿弥陀仏の願いとはたらきにふれて生きる意味と喜びを得て、あらゆるいのちと共に、いきいきと生きられた親鸞聖人の姿に直接・間接的に出あわれた人々が、人生の根本問題を本気で問い求め始め、またその人にふれた人がまた人へと、仏法が私のところまで届けられたのでしょう。

 私たちにはたくさんの「善知識」がいてくださいますね。