お知らせ

本尊

2023年12月24日

 お寺にお参りしたり、仏像を前にすると手を合わせて礼拝します。また、仏教の行事や学習会などで、前に出てお話しをする方は、必ず正面に向かって合掌礼拝してからお話しを始めます。

 「本尊」とは、文字通り「本当に尊いということ」です。その「尊いこと」に合掌し頭を下げるのです。親鸞聖人は「南無阿弥陀仏」をご本尊として生きられました。

 私の人生において、私は何をご本尊として生きているのでしょうか。私が本当に頭を下げるべき、私の人生にとって本当に尊いこととは何なのかを問い確かめるために、私たちは本尊の前で合掌し礼拝をします。私は何を大事にしながら生きているのか。生きる意味や価値をどこに見出そうとしているのか。礼拝する、つまり謙虚になって頭を下げることで、自分がたよりにならないものをたよりとして、目の前の小事に振り回されていることが露わになります。

 私たちは人生で様々な出来事に出会い続けます。その出来事に振り回されながら生きている私たちにとって、どんな状況になっても生きていける支えは何なのか、何がなかったら生きていけないのか。その前に、私の生き方は生きることの下支えをしてくれているような「何か」を大事にする生き方であるのか。そういったことに目が向いていないのではないでしょうか。

 人間は知恵(すべてを人間の知恵で考え判断し、選びながら進んでいくこと)によって、豊かな文明を築き上げ、とにかく知恵こそが最重要だとし、知恵を尽くしてきました。しかし、人間の知恵と努力でなんとかなると思い、懸命に進むのですが、しばらくすると「こんなはずではなかった」という繰り返しになって、本当のことを見抜くことも行く末を見通すこともできません。だから行き詰まるのです。

 そのようにしか生きられない私たちであると謙虚になって、ありのままの自分をご本尊の前に置き、そして合掌し頭を下げるのは、本当のことを知りたい、つまりは本当に安心していきいきと生きたいということでしょう。

 合掌も、本来はインド由来の挨拶の作法です。胸の前で静かに右手と左手を合わせることは、善悪や清濁・正邪など自分の中で対立している心のバランスを整えて、演じたり駆け引きのない素直な自分を取り戻すはたらきがあるようです。